読書偏歴

2015.4~7

今年の夏は暑いなあ。1日生き延びるだけで精一杯。

何度か書いているような気がするが、読書は道楽の一種。こんなに多くの本を手に取れる環境は幸せだ。

読書をする目的・・・?そんなもの簡単に分かったら苦労せんわ、何のため、とか考えているヒマがあったら読めば、というのが自分のスタンス。目的や理由は後からついてくる。もちろん何らかの「期待」を持って読むわけだけれど、それがその事後的に明らかになる(今はまだ分からない)目的を期待している、というか・・・(わかりにくいね)。

出会いの期待、のようなものかな。書店で本を物色するのは、集団見合い的な(ちがうと思うぞ)。でもその手に取った本と恋愛する、というのは方向性としてそんなに間違ってない。どうぞお幸せに。

読後の発見の中には、ああ、自分ってこんな考え方をする人間だったのね、みたいなこともあるから、自分探しの側面もあるのかしら(いやだなあ)。自分がどういう人間か、なんて、普段は大して知りたくもない。知りたくない、という気持ちすら自分から隠蔽していたりするわけで(そうでないと生きていけない。大袈裟でなくて。)。

人間は面白いもので、「自分探し」をしているようでいて、その行為自体がそのことからの逃避だったりすることがあるからね。見たくないんだよ、自分の姿なんて、本当は〜〜。白雪姫の継母だって、鏡を見るのは、真実を見たくない、という強迫観念の裏返し、じゃないかな。

何の話だ。そうそう、つまり直に自分を見つめるような行為はそもそも不可能だからさ、例えば理由もなく始めた読書などを通じて、迂回的に自分を知るわけ。この迂回的に、無意識にというのが必要なんですね、たぶん。だから読書の目的が明確でないのも、ムベナルかな。

という説(言い訳)を今考えた。

2015.1~3

コーンウェル久々?そんなに読んでないっけ。手を広げ過ぎなのだな。

今年は雪も少なくて桜も早い、ような気が。

暖かい季節になると、さあBBQだ(北海道民的にはジンパ)みたいな空気が醸し出されるが、桜の花の下で読書、なんてのも、時々花びらが本の見開きに落ちたりして、趣がある。

ううむ、絵になるのう(和服美人か大正の女学生でお願いします)。

絵じゃなくて読書の話だった。

天気の良い日に、お弁当とポットにコーヒーを入れて、公園に読書しに行こうかしら。あまりスポーツをしない私としては、何で天気の良い日に外に来てまでキャッチボールとかせにゃならんのか、と思う訳で(考え方がオカしい)。あっ、ボールをぶつけないでください。イチロー応援してます。

とはいえ読書は風に弱いから、穏やかな日に限るかな。雨にも負けるし。公園では散歩の犬に吠えられるかもしれないし、子供に指さされるかも、ボールが飛んでくるかも、職質されるかも・・・。おおらかな心でいるのが大事です。

戸外での読書アイテム、を考えた。アウトドア用品、かな?電子書籍は却下(絵にならない)。

そういえば、一般に肘掛けは肘「を」掛ける、膝掛けは膝「に」掛ける、だね。何故だか。