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読書偏歴
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読-書-偏-歴
2013



2013.12
小野不由美「丕緒の鳥」
野尻抱介「女子高生、リフトオフ!」
森博嗣「つぼ焼きのテリーヌ」
元長柾木「ヤクザガール・ミサイルハート」
更新が滞って・・・。
なんだか誤解を受けそうな題の本だが、まあいいか(何が)。ファンタジーとSFとエッセイだよ。

忙しいと読書の時間が削られることはあるが、じゃあ逆に時間に余裕がある時に「ヒマだから読書でもするか」という気分になるかというと、そうでもない(もちろん人によるでしょうけど)。
どちらかというと、この本が読みたい!という欲求がまずあって、そのために時間を作る。そういう能動的なものではないかな、と。だから自分が読む予定の本はストックが常にある状態なのだな(衝動買いの言い訳か)。
従って忙しい時には、ストックの中でも既読作家を選ぶ傾向にある、ような気がする。そんな意識はしてないが。そのほうが所要時間が短い、とも限らないけど・・・何でしょうね、比較的読書モードに没入しやすいのかも。
そもそもヒマな時ってのは、「ヒマ」という状態を楽しんでいるわけで、ヒマだから何かをしたい、のではない、ですよね?(異論が多そうだが)
ただ、読む本の新規開拓をするときは、「ヒマ」な頭の状態で物色したほうがよい。そういう「余裕」がないと、ね・・・。
とはいえ、その「ヒマ」なり「余裕」というのも、結局は自分で作り出すものなのであるが。
2013.11
Jussi Adler-Olsen「特捜部Q-檻の中の女-」
西尾維新「悲報伝」
綾辻行人「深泥丘奇談・続」
特捜部Q、面白い。ついつい著者近影と主人公を重ねてしまう。

クリスマス、にはあまり興味がないが(僻みと思われるけど、ないものはしょうがない)、クリスマスの読書イベントを考えてみた。 こういう便乗行事って、たくさんあるよね。一体何なんだ、と思わなくもないが、意味がありげでなさげなものは好きです。別にクリスマスじゃなくてもよいじゃん、読書じゃないじゃん、という突っ込みは禁止。
1.クリスマス読書会:クリスマスにまつわる小説を読む会。クリスマス・キャロルだって、読んだこと無い人は結構いるんじゃない?(うっ・・)。その手の本は探せば色々とありそう。そういえば昔、クリスマス読書会で事件が起きるというミステリを読んだ気がするな。朗読会はあるよね。
2.プレゼント交換会(本に限る):各自が未読の小説を予め確認しておいて、自分が当った本は読んで感想を語らなくてはいけない、というルール。勝負に近いな(>そう?)。
3.聖書を読む会:普通か・・・。
4.小説に出てくるクリスマス料理を再現する会:これは誰かやっていそう。海外の料理とか、興味を惹かれる。
5.本の宅配のクリスマスプレゼントサービス:サンタさんの袋の中身が全て本だったら、重そうだね・・・。
6.本棚のイルミネーション装飾:書店ではありそうだが、自宅でやるとなると・・・うん、わりといけるかも。妻が勝手に書斎を飾り付けとかするの。それがトリック(何の)。
7.本型のクリスマスケーキを作る:美味しそうだな・・・(妄想中)。ロールケーキは、巻物風?
8.クリスマスケーキとコーヒーを傍らに、読書する:普段どおりの光景。
2013.10
Patricia D. Cornwell「接触」
David Gordon「ミステリガール」
森博嗣「「やりがいのある仕事」という幻想」
更新が滞っております。
更新世の地球環境を想像してください。
ね?(それがどうした)

よくまあ飽きずに読書が続くものだ、と我ながら感心する、ことはない(>ないのか)。それはたまたまだし、飽きたら止めるだけのことだし、道楽に感心したって仕方がないし。
とはいえ、続けるコツらしきみたいなものはある(重複表現?)。
前にも書いたが、読書が習慣と化していることは、続いている理由の1つではあろう(アロワナ、と書こうとして自制した)。この場合は食事や歯磨きと同じようなものか(食事は、我ながらよく続くものだ、とたまに思うことがある)。
それ以外では、読むジャンルや作家の新規開拓を常に行なうこと、でしょうか。新しいものにチャレンジする、好奇心を常に持ち続ける、この2つはほぼ同義だと思うけれど、ではそれをどうやって持続するか。
(改めて書くまでもないことだが)好奇心の持続というのは、結局のところ、自分自身を変化させ続けることだ。じゃあそのコツは、とか聞かないように。変化自体は、いやでも毎日起こっていることでしょ?(たぶん)。要は、その自分自身の変化を捉えているかどうか、だと思う。
とはいえ、朝起きて、昨日とはここが違うぜ!と瞬時に判るようなものでもないので、例えば、何か本を読んでみて、以前と感じ方がどう変わっているか、といったことで判断するしかない。
つまり、とりあえず読んでみるしかない、という・・・コツでもなんでもないですね。
でも、変化と言うのはどんな些細なことでもよい。ちょっとでも興味の対象に変化があれば、読書の幅がだんだんに広がっていくし、それは楽しみ方の幅も広がるということなので、いずれ大きな変化となる。ということを経験的に知っているってことが、コツ、みたいな。
そうそう、この「楽しみ方」という、メソッドを少し変化させるというのは有効な手です。
しかし自分自身では、昔から読書の幅が広がったという気があまりしないのだが、、、広がるとはいっても所詮は大した範囲ではないということかしら。まあ、たかが読書の話だから・・・。
2013.9
相場英雄「震える牛」
野尻抱介「アンクスの海賊」
霧舎巧「四月は霧の00密室」
自分が読書するときの場所は、そんなに意識したことがないけれど、本の内容によって周囲の環境を選ぶことがある。
どうせ喫茶店でしょ、と思われるかもしれないが(そうなんだけど)、一口にカフェや喫茶店といっても、それぞれの店で雰囲気が随分異なる訳で。 その違いというのは、その本に集中力をどのくらい必要とするかで決まり、ジャンルはあまり関係ない、ような気がする。当たり前かな。
面白いことに、完全に隔離された個室が一番集中できるとも限らないので(読書では)、、、ある程度の他人や音楽の存在が「良い具合に」働くことがある。そのへんは微妙な雰囲気の差で読む場所を決めていると思われる(と書くと、他人事のようだが)。 また読書している最中の自分のリアクションを他から見られないか、見られても大丈夫か、といった点も多少は反映されるかも。見られて何がどう大丈夫なんだか、イマイチ不明だが、何となく場の許容といったものが、ありますでしょ、ね。
しかしどうしたって外出先では本のサイズが制限され、喫茶店では、凶器となる本の持ち込みはお断り、されるかもしれない。ので、大型の本や人目を憚られる本(>いい歳してあんな本読んでるわ、とか指差されそうなもの)は自宅で、夜で、ということになる。夜で、というのは、訪問による邪魔がまず入らないから。
2013.8
西尾維新「暦物語」
京極夏彦「豆腐小僧双六道中 おやすみ」
西尾維新「悲惨伝」
ネタばれについて。
世の中には、結末を知ってからでないと、その本を安心して読めない、という人がいるらしい。という書き方をすると、そういう人がマイナーな印象を与えますが、リサーチした訳ではないのでわかりません。自分はもちろん、最後までとっておく派なので・・・。終わりのページまでいっても、うっかり最後の一行が目に入らないように気をつけなくちゃ!くらいな(きっと判ってくれる人がいるだろう、はいおそらく、たぶん)。つまり、まあ、自分はミステリィ主体で読書してきた人なので・・・そういう発想になってしまう。というだけなのですが。
以前は、事前に結末が知れてしまうと台無しだ!用無しだ!と思っていたが、最近ではそうでもない。結末を見てから読み始める人の気持ちが判るようになった、訳ではないが、1つには、楽しみ方の幅が広がったのではないかな〜(ジャンルおよび読み方の両方が)。結末から読むことは今でもしませんが、ラストのサプライズ!(>ショーのプレゼンターか)的なところだけを目当てにすることがなくなったというか。不幸な事故(?)で知れてしまっても、激怒せず、まあいいか、と。よく考えたら、よく考えなくても、自分で既読の小説を読み返したりもするわけだからさ・・・それはそれで面白いので、同じことじゃないかな?
まあでも「読者への挑戦」があるミステリィなんかは、ネタばれは駄目だと思うぞ。だって「お約束」だもの。驚愕の結末、ってのは、ある程度は読者が演出するものだ。驚くのは自分自身なんだから。
ネタばれしても(そんなには)激怒しなくなったのは歳のせいかもシランが、2つめには、多少の情報では小説(映画でも)の内容は伝わらないから。実際に読むと、本当はこういう意味だったのね、ということがとても多い。元々、結末を明らかにしてから語り始める小説も、普通にあったわけだし、そこが本質ではない、というか。
でもぉ、結末を確認してから読む派の人はさ、作者の意図に関わらず、その本の後ろからまず読むでしょ。理解できん・・・最初から読めよ・・・(いやまあ、自由ですけど)。え、もしかしてそっちのほうが普通だったのかしら?それこそ驚愕の事実!って奴だけど・・・(驚愕の、というのは、大抵の場合はその本人にとってのことだけで、周囲からすると痛い人、だったりするが)。
2013.7
Connie Willis「オール・クリア 2」
野尻抱介「フェイダーリンクの鯨」
機本伸司「彼女の狂詩曲」
北村薫(編)「こわい部屋」
素晴らしい、コニー・ウィリス。

書店で本を買うとき、よく迷う。って話は前にも書いたような気がする(ま、いいか)。
ネットで買おうかどうかで迷うことはほとんどない。だってここで買わねばリアル書店に来ている意味が無いではないですか。
ではなくて、目移りするので、うわーどれにしようかなあ、的な迷いです(好きなだけ買うたらええがな)。家にはまだ読んでない本もあるし、持てる量も限られているし、ああどうしよう、「フィジカルキャンセラー!」と叫んだら危ない人だ(時と場所をわきまえよう)。で、泣く泣く(?)、選別という罪深い行いをして、帰途につくのである。それにしてもおかしいな、あらかじめ買う本を決めて来たはずなのに・・・、予期せぬ出会いが心を惑わせるのです、って何の歌詞だったっけ。山口百恵だっけ。大橋純子かな。
何の話だったか、そうそう、迷う話。子供の頃は、守備範囲も予算も限られていたから、迷う余地がなかったかな。そう考えると、今の状態は幸せなのかも。別に強迫観念があって迷ってるわけじゃないからね。ああ幸せ、と本屋でやらないよう気をつけねば。自分の幸福を人に祈らせてあげたくなる人だ、と思われるし(意味わからない)。
かように自分でも自覚はあるのに、何故毎回迷うのか、というのは興味深いテーマだ。1)迷うことのイベント化、2)歳のせい、3)それぞれ別人格が考えている、4)脊髄反射、5)ひとつ曲がり角ひとつ間違えて、6)全部、さてどれか。
そうねえ・・・何となく本を買うまでの合意形成に時間がかかる、って感じはしてます、はい。
同じことは、買った本を読む段になってからも起こる。以下同文。何なんでしょうか。別にそれで自分が困っているわけじゃないから、よいけれど、人に話したらビョーキだと思われかねない。黙ってよう・・・。困っていない、というのは、もう慣れた、という意味である(え、意味がわからない?)。
カフェに入って注文するときも、やっぱり躊躇が入る。いつも同じメニューを選ぶくせに、何を躊躇っているのか、こちらは皆目不明。いずれ考察してみよう、と、ひと事のように言うのがコツです。何のコツだ・・・。
2013.6
柳 広司「パラダイス・ロスト 」
Connie Willis「オール・クリア 1」
北村薫(編)「謎の部屋」
続編はまともな厚さだと思ったら、2分冊。それにしても面白いのが、よく分らない理由なの。(パクリ口調>クックロビン音頭ではない>知らない人に優しくない>いつものことだ)

前回はよく考えずに書いたが(いつものことだが)、そもそもどんなのが「恋愛小説」なのか、よく知らない。気にしたことすらない。日本恋愛作家協会の人、教えて下さい。あ、恋愛文学賞の受賞作品を読めば良いのか、そうだよね、盲点だった。いやいや、なんとかクイン文庫とかじゃないかな。気になってはいるのだが、まだ手を出したことはない(「まだ」?)。
よく読むSFやミステリの中でも恋愛は描かれているものの、何と云うか、吊り橋降下的な特殊条件下の話で、銃弾の盾になったくらいでくっついて良いのか君達、みたいなのばっかりだから(そこが良い、という意見も)・・・というのは言い過ぎだが、恋愛か事件かどっちかにしたら、と思っていると、恋愛だけしているキャラは大抵殺されてしまって不憫ではある。結論がおかしいな。恋愛に無関心キャラが大したイベントもなく結果的に成就したりするほうが現実に近い気がします(イベントが描かれなかっただけで、あったのだろうけれど、という深読み=妄想をしてよいものかどうか)。
ちなみに、吊り橋ってよく落ちるので。落ちないと話が展開しないし(読む小説が偏ってませんか)。落ちない吊り橋に存在意義はない、的な。
物語に男女が出てくれば必ず恋愛要素がある、という意見もありそうですけれど、甘いね・・・性別種族別に囚われてはいけません(小説の話だよ)。ハッピー・エンド=恋愛成就というのも、違いますね。現実だって・・・(これ以上書くと刺されそうなので)。

流れ的に、次は学園ラブコメミステリでも読むか・・・(嗜好度テスト:3要素のうち、外してもよいのはどれでしょう?いや、4要素か?複数解答可。1つも外せないって?それはそれは・・・)。
2013.5
Françoise Sagan「愛は束縛」
Connie Willis「ブラックアウト」
森博嗣「人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか」
この厚さポケット判といっていいのか「ブラックアウト」。

危険な話題(どうか石を投げないで下さい)。
前回の赤川次郎で印象的だったのは、著者インタビューかなにかで、恋愛について語っていたこと(結婚だったか?正確なところは忘れましたが)。恋愛を経験するよりも小説で書くほうが先だったが、それを実際にしてみると書いた小説と同じだった、という内容。中学生ながら「なるほど〜」と思った。
別に恋愛指南書にしよう、とか思ったのではなくって、恋愛とはいえ想像範囲内というか、作家ともなればそこまで考えられるのか、ということ(自分もできるって意味じゃないよ、もちろん)。
例えば自分が恋愛(が書かれた)小説とか漫画を読んでいると、そういうことばかり妄想して物語のキャラクターを相手の理想像にしているとか、そんなんばかり読んでいると生身の相手と恋愛できなくなるとか、そういったステレオタイプな誤解を受けることがあるのですが(それも良いかなって思うけど>ジョークにならんか?)・・・返事に困るくらい違います。妄想はしてるけど。では何が違うのか。
そういった指摘をしてくる人に限って、じゃあどういうのが本当の恋愛なの?と聞くと、返ってくる内容がそれこそTVや雑誌やネットで語られている定型と同じだったりする。ほほう・・・でもその手の話を聞くことは、小説を読んで恋愛を妄想するのと同じことですよ。
「いや同じじゃない、それは実際の体験談だから」と反論する人がいるかもしれませんが、その情報を自分の脳が咀嚼して取り込んだ時点で主観的な妄想と同じになるのですよ。ということがなかなか分ってもらえない。
「え、じゃあ、他の人の体験談が嘘ってこと?」
嘘ではないけれど、それ自体がその人の主観でもって語られており、それを聞く側も自分の主観でもって理解するわけだからさ・・・そこまでいったら妄想のレベルじゃないですか?ってこと。
この点が真実か妄想かという議論をする気は全くないです。自分にとっては同じ程度の話だ、ってこと。ということを言うと激怒する人がいるので普段は話しませんが、って書いちゃった(あくまで個人的な見解ですから、人それぞれですので・・・)。多かれ少なかれ、どんな場合でも、自分の主観なり妄想なり先入観をもって事にあたるしかないわけだからさ。それに無意識の内に、自分の願望を反映させてしまうものでしょ?だったら妄想と現実が(たまたま)同じでも不思議ではない。なので赤川次郎の言葉が腑に落ちたのです。
返事に困るというのは、小説や漫画の恋愛話に感情移入して読むわけだけれど、その時は別の自分(人格)になってるんだからさ・・・普段の自分に言われてもね(「愛と束縛」は素晴らしかったけれど、実生活には全然参考になりませんよね)。
結局は体験してみないと分らない、と考えているので、小説であれ、人の体験談であれ、聞いても「ふーん」と思うくらい。たまに参考になることもありますけど、大抵は小説のほうが面白いよね(また問題発言を・・・)。

結論は、私は人の話を聞かない人間だ、ということです。はい、すみません。

こうやって恋愛について語っているようで、全く自分の恋愛観を喋っていないのを韜晦という(やらしいね・・・)。
「という」と「こと」が何回出てきたでしょうか。
2013.4
麻耶雄嵩「隻眼の少女」
法月綸太郎「しらみつぶしの時計」
野尻抱介「ヴェイスの盲点」
米澤穂信「追想五断章」
石川雅之「もやしもん vol. 12」
「隻眼の少女」は単行本で読もうと思っているうちに文庫版が出てしまった。「クレギオン」に手を出す。 「手を出す」というのは、シリーズだから、これで後戻りは出来ない、的な(こういうこと言うと、意味わかんない、と思われがちなので、本読みの人は気をつけよう)。野尻抱介は「太陽の簒奪者」がお薦めかな。基本的に「お薦め」はしないのですが、もしも読むなら、ってことです。
「ダーリン」ですか。そうですか。(なんのことやら)

中学時代を思い出すと、古典的な探偵小説にも没頭する傍ら、赤川次郎や辻真先を読んでいた。
赤川次郎は「セーラー服と機関銃(映画)」の原作者で有名、としか最初は知らなかったけれど(それにしても「セーラー服」を含むタイトルもなかなか無いよね)、初めて読んだのは「孤独な週末」だったかな(我ながら渋いな・・・)。少しして「三毛猫ホームズ」にハマり、新刊を楽しみに待つ中学生だった。「マリオネットの罠」「幽霊列車」も好きです。「セーラー服と機関銃」を読んだのは大学生になってから。映画は見たことない(^_^)。セーラー服、とこんなに書くのも初めてだ(特に興味はない)。
同じ時期、いかにも便乗というタイトルの辻真先「迷犬ルパン」シリーズを読み始める。なんてアカラサマなネーミングだ、と思ったが、これがまた面白くて、シニカルな内容が気に入ってました。辻真先も結構読んだ。「仮題・中学殺人事件」と「アリスの国の殺人」が良いです。他人には薦めないですが・・・(何故これが好きか、説明が難しい)。前者は最近新装版が出たが、構成が変わってしまっていて、昔のほうが好きだったなあ(変えた理由もよくわかる、気がするけれど)。
2013.3
西尾維新「悲痛伝」
京極夏彦「西巷説百物語」
三上延「ビブリア古書堂の事件手帖4」
平山夢明「或るろくでなしの死」
よくこんなぶ厚い本書くよね、まったく(といいつつ読む)。京極夏彦の小説は途中で先が読めても怖い(ネタが割れてようがいまいが怖いのだ)。前回乱歩のことを書いたら、ビブリア新刊の内容が・・・(偶然)。

推理小説は、小学生のころは大体は子供向けに書かれた本を読んでいたが(よくあるパターンでホームズものとかルパンもの)、そのうちそれではもの足りなくなってくるわけで。中学生のころから「大人版」(何て云うのか)に手を出していた(親が沢山読んでいたし)。最初の頃はそうでもなかったが、乱歩が頭にあったせいか、あるとき「江戸川乱歩賞」と書かれた本を手に取ったところ、はまってしまった。それが仁木悦子「猫は知っていた」。その時の文庫本はまだ持っている。時代は高度経済成長時の日本(たぶん)、乱歩のようなおどろおどろしさは無く、柔らかい語り口で、でもバリバリの「本格」推理小説。自分の中での推理小説体験の黎明としてはラッキーだったと今でも思う(あまりミステリィの部分だけ強調するのも正しい評価ではないけれど)。仁木悦子は手当たり次第に読んだ。初めての人には「赤い猫」をどうぞ。
その後は佐野洋、赤川次郎、辻真先、だったかな。もちろん乱歩や横溝正史も。横溝は「本陣」が好きですね。
2013.2
神林長平「敵は海賊・海賊の敵」
Paolo Bacigalupi「第六ポンプ」
Peter Tremayne「修道女フィデルマの叡智」
「敵は海賊」シリーズを読んだことのない人は、このタイトルの「意味」が判らないだろうなあ・・・(そりゃそうだ)。

人生で最初に読んだミステリィは、・・・何だっけ、そんな昔のことは忘れてしまった。
たぶんドイルか乱歩のどちらかで、「まだらの紐」か「少年探偵団」だろう。江戸川乱歩は好きでよく読んだ。子供心に、あまり見てはいけないもの、みたいな印象があったが。あの昭和の空気や陰湿陰惨な感じがその後の読書の好みを決定した、のかも。だから今でもミステリィのなかではその頃の探偵小説(風なの)が好きなので。乱歩は、古くさくてある種の滑稽さを伴った語り口が気味悪く、狂気に至る怖さを増長させる。ああ〜いいなぁ〜(危ない人だな)。
乱歩作品でとりわけ好きなのは、何だろう・・・ちょっと異色だけれど「黄金仮面」と「化人幻戯」だろうか。ダメですよ、子供は読んだら(自分のことは棚に上げ)。
短編なら「白昼夢」か。萌え系なら「魔術師」(クレームは受け付けません)。「吸血鬼」は外せない。怪人二十面相も好きです。何せ「怪人」ですよ。「二十」ですよ(深く考えないように)。
この頃の「探偵小説」の挿絵は、何と云うか線画や墨画のような絵が多く(何て云うんですかね?)、チープなんだけどそこがまた雰囲気があってよかった。挿絵があまり綺麗でもいけないし、今風のコミック的イラストだったら台無しだからね(そこまで言うか)。その辺の好みは過去の経験の「刷り込み」だろうけど。横溝正史も、自分の中のイメージは完全に往年の角川文庫の黒背表紙のアレですから。子供の時は買うのに勇気がいる絵柄だったなあ・・・(でも買ったのね)。
2013.1
Patricia D. Cornwell「死因」
Steve Hamilton「解錠師」
Françoise Sagan「赤いワインに涙が…」
読書する暇もないほど忙しい(厭な話題だな・・・)、というのは、読書する時間が無い、というのとは少し違う。
時間はあるのだけれど、読書する気が起きないほど脳が疲れている、例えばテレビは見られるけど読書はできない、ということがある。
そんな状態では、仕事でも何でもパフォーマンスを発揮できないだろう、と思われるが、どうでしょうか(>誰に聞いている)。会議くらいなら問題ないけれど、って、問題発言かな(会議で寝てるという意味じゃないよ)。
ちなみに、本を読む(文字を認識して展開する)ことにかかるエネルギーは人によって異なるだろうから、もちろん上記は一般論ではない。

厭な話題はサテオキ。今年の抱負。
コレだけは読まねばなるまい、というか、読みたい、というか、読めよ、という本があるので、それを読む。あとコニー・ウィルスをもうちょっと読みたい。それから、本棚を整備したい。本棚の中は整理したって仕方が無い、状態。