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読書偏歴
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読-書-偏-歴
2012



2012.12
Françoise Sagan「逃げ道」
David Gordon 他「ミステリアス・ショーケース」
上田早夕里「華竜の宮」
赤川次郎 他「金田一耕助に捧ぐ九つの狂想曲」
今年の新規の収穫はPeter Tremayne、三上延、上田早夕里かな・・・。読むつもりの本がまだまだあったのだが、つい予定外の本に手を出してしまうのが3分の1くらい。

帰省の折、実家で「某大型書店のここが使いにくい」という話で盛り上がった(こんなんで盛り上がるのもどうかしら)。
結局のところ、目的の本が探しにくいという1点に尽きるのだが・・・あくまで個人的な感触です(とお断りしておく)。
普通、本棚の分類は複数の基準によっている。著者別、ジャンル別、出版社別などで、それぞれの分類に適する書籍が異なる。で、特に分りにくいのは、出版社文庫別の棚がある一方で(同じ文庫で)著者別や海外作品別の棚を作っている場合とか(で、場所が離れていたりする)。どれかに統一して欲しい。
また、なんとかフェアで本の場所を変えるのは販促のためだが、あまり複数の場所でやらないで欲しい。
本の棚が分らなければ、検索システムを使えば良いって?まあそうなんですが・・・。ただ上記は、(ネットを使わずに)リアル書店に出向いて探し、自分の手に取って買いたい人の言なので、そういう立場からは、検索しなければ分らない棚の作りってどうなのよ?検索するくらいならわざわざ書店になんか行かない、と思ってしまう訳です(たぶんマイナーな意見)。
だってその書店に在庫があるかどうかすら、今は自宅からネットで検索できるんだから・・・、検索しさえすればよい、というのは、ネットで買えばよい、というのと同じでは?ということをぐだぐだ言いつつも、書店に出かけて行く人なのですが。
そうそう、本の在処を店員さんに聞いたところで、客と同じように検索システムで探されたら、ちょっと萎えるよね(まあ仕方ないか・・・)。
2012.11
Carter Dickson「黒死荘の殺人」
京極夏彦「死ねばいいのに」
喜多喜久「ラブ・ケミストリー」
更新が遅れてしまった。
学生のころ、本にかけるカバーはその辺の紙を使って自分で作っていた。その頃はお金が乏しく古本屋を常用してたせいでもある(最近は書店でかけてもらう)。
その辺の紙といっても、安上がりで落ち着いた色で、となると、これが意外に無いもので。何も書いてない紙は勿体ない。新聞紙は本が黒くなるし、広告は安っぽいし、使い終わった大型の茶封筒は滅多に出ないし。よく使ったのは使い終わったカレンダーとか、サイズもそこそこあって、見栄えもそれなりだし。他には、英語の論文のミスコピーの紙が研究室には山ほどあったので、それも使っていた。一般の人は知らないから、ぱっと見に英字新聞っぽいよね、とか学生同士で評し合ってたり。
2012.10
H. R. Wakefield「ゴースト・ハント」
土屋賢二「ツチヤの口車」
西尾維新「憑物語」
京極夏彦「厭な小説」
厭な小説書くなあ・・・あああ厭だ。何が厭かって?読めばわかる。

読書するのは道楽で、個人的な楽しみのため(個人的でない楽しみがあるのか知らんが、と書くと怒られそうだが)、とは前にも書いたが、実のところ何が楽しくて読んでいるのかはよく分からない(面白いことは確かだが、具体的な形にならない、という意味)。
何が面白かったかなんてことは後になって分かることだし。しかも、過去の自分と現在の自分では面白がっている事柄が異なっていたりする訳で、現在は常に茫としている。何年も前に読んだ本を読み返すと、また違った楽しみ方ができるだろう、たぶん(そんなヒマないから思うだけだが)。自分にとって今読んでいる本の何が面白いのか、切実に知りたいが、だって分からないんだよ、本当に(でもいずれ分かるという楽観も含まれている)。
自分の好みとか楽しいと感じる対象は、それだけ曖昧なものだ。はっきりこうと言えるような好みももちろんあるが(そんなのはいくらでも挙げられる)、どうしてか理由がよく分からないが何だか面白い、という本を見つけるほうがずっと大事だと考えている。そういった本を探すのも雲をつかむようなハナシだが、まあ、探せばあるもんで。
(何を言っているのか、自分でもよく分からないですね~。「が」が多いぞ。)

2012.9
三上延「ビブリア古書堂の事件手帖3」
野尻抱介「ふわふわの泉」
西尾維新「少女不十分」
Françoise Sagan「ある微笑」
アマゾンとかで本を買っていると、いわゆる「おすすめ」の商品をメールで知らせてくる。購入した本と同じ作家の新作ならまだよいが、それ以外となると、ほとんど見当違いのセレクションに結構笑える。全然ちがうよ!って。自分も含めた購入者の履歴やキーワードで分析するプログラムがあるんだろうけど・・・あまり当たったことがない。たまに当たってるものは、まず既読だしね。
これは、自分はよく知らないジャンルの、他人の趣味を類推するのに似ている。趣味が高じるほど違いにこだわるわけで、他の人には同じに見えても、違うんだよなあ、みたいな。まあ些細なことなのでムキにならないように(自分に言ってるのか)。
雑誌の発売日を知らせてくれるのは便利かな。お、もう発売されてる、と思うと、待ちきれずにリアル書店に買いに行く。雑誌は定期購読しているものもあるが、そうではない場合、何かこう、モチベーションが違うよね。無駄にエネルギーをかけられる?幸せな人だ・・・(自分に言ってるのか)。

2012.8
Patricia D. Cornwell「私刑」
三上延「ビブリア古書堂の事件手帖2」
米澤穂信「ふたりの距離の概算」
三浦しをん「舟を編む」
喫茶店やカフェに行くのはお茶するためであって、読書するためではない(と書いても説得力がありませんね)。「お茶する」の中にコーヒーとかお喋りとか読書とか読書とかが含まれているだけで(やっぱり)。
コーヒーの味と同じくらい、リラックスできる雰囲気の店かどうかは大切である。もちろん「リラックス」の基準は個々人で性ある、じゃない、差があるので、一般論は無い。
自分としては、よく行く店は読書基準で決めることが多く、コーヒーが美味しいからといって必ずしも通う頻度が高いわけではない。コーヒーがメインか読書がメインかで使い分ける。ファストフード店ですら落ち着くかどうかの雰囲気で決めているくらいで、これは明確に差がある。当然だが、同じチェーン店であっても場所によって異なる。
店内は明るすぎず、BGMはクラシックで、椅子とテーブルがほどよい高さでマッチしていること、が理想かなあ(読書基準ですよ)。ソファも、テーブルとの組み合わせによって善し悪しが変わる。オープンな店の作りか、閉空間かはあまり関係ない。あ、天井は高いほうがよいな(なんでかわからないが)。
読書はどこでもできる(する)けれど、わざわざその店に出かけていく理由または価値は何か、ということ。話は逸れるが、人の少ない空港の待合席も非常に落ち着く。読書のために空港に行こうかと思うくらい。
2012.7
谷崎潤一郎「谷崎潤一郎犯罪小説集」
三上延「ビブリア古書堂の事件手帖」
Shirley Jackson「ずっとお城で暮らしてる」
笠井潔「青銅の悲劇」
たま〜に、「よく読書する時間がありますね」とか言われることがある。読書ばっかりしてないで、という窘めかも?
その他にも、よくそんなお金がありますね、とか。
某作家先生のエッセイだったか日記にも同様の内容がありましたが、自分にも降り掛かると(火の粉じゃないけど)、そりゃ別に余っている訳じゃないけど時間とお金は使い方しだいでしょ、と教えてあげたくなる。
答えも全くの受け売りですけど、他人よりは食事しないし、テレビも観ないし、旅行へも行かないし、帰省もそんなにしないし、酒もタバコもやらないし。オリンピックも観ていない。
まあ〜普段は、そういったことは話題の振りなので、そんなに真剣に反論してはいない。たまに、本当に驚く人がいるので、そういう人は興味深いですね。
会話するうえでテレビ番組などの共通の話題が必要だと考える人もいるみたいだけれど(テレビくらいみとけ、的な)、無くても会話はできるんじゃないかなあ、と思う。自分は有っても無くても、会話自体が苦手なので、あまり関係ない(駄目人間)。
読書の話は共通性があった方がよいですよ、ネタばれになるからね。
2012.6
Christopher Priest「奇術師」
柳広司「ダブル・ジョーカー」
久生十蘭「十蘭錬金術」
澁澤龍彦「快楽主義の哲学」
以前はしていたのに、最近やらなくなったこと。

「古書店に通う」:子供のころは使えるお金や行動範囲が限られていたし、アマゾンも無かったから、新書店よりは古書店で入手できるケースもあった。 今はあまり行かなくなったなあ。価格以外のメリットがない。古書の収集も趣味じゃないし。
「本をまとめて買いに行く」:子供のころは機会が限られていて、いやホント、買い出しに行く、という感じだった。勤めるようになってからも、一度、大人買いをしてみたことがあるけれど、重いからやめた。店員さんに、宅急便で送りましょうか、と言われたし。馬鹿ですね〜。
「布団の中で読む」:今はベッドになったから、じゃなくて、歳を取ると体力が落ちて寝てしまうから。
「徹夜して読む」:結果的に、ですけど、上と理由は同じ。昔は徹夜の読書が一番集中できたのに(特にテスト前夜)。
「学校(大学)の図書館で読む」:大学が仕事場になってしまったからな・・・。
「読書や購入の計画を立てる」:物事は計画的に、って、大人はみんな言うけどね。あとは、買って溜めておくという技が、昔は経済的に無理だった(「技」か?)。
「綺麗な手で読む」:本に染みをつけないように。子供のころは何となく、背筋を伸ばして読書する態度でしたかね。古本でも貴重だったので。今は文庫本なら汚れても「ま、いっか」で気にしない。ハードカバーは装丁が命だから、さすがに気をつける。
「メモを取りながら読む」:「黒死館」の時にやったな・・・。
「1人の作家を集中的に読む」:何と云うか、次はここを制覇するぞ、という感じだった。1つのスタイルかもしれないけど、今思うと何だったのだろうか・・・。
「一気に読む」:最近は時間と集中力が・・・。旅行中はするかな。
「オビや栞を捨てない」:まだちょっと理由なき抵抗があるけれど。貧乏性です。
2012.5
Nancy Kress「アードマン連結体」
西尾維新「悲鳴伝」
野尻抱介「南極点のピアピア動画」
どうにも気になるものの、どうでもよい些細なこと。

・最近、小説のカバーでもコミックやアニメ的な絵柄の表紙が多いように感じる。俳優や芸能人モデルのカバーと、どっちが抵抗感が無いか。買う時に若干躊躇する。読む分には全然と言っていいほど全く関係ないのだが(重複)。どっちかというと、フィクションを読むのにリアルなモデルはいかがなものかと思う。誠に遺憾である。(愛に遺憾、は無いなぁ)。
・文庫が待ちきれずに単行本を買ってしまったものの、本棚への納まりが悪い。刊行のとき単行本も文庫も一緒に出してくれないものか。(今更、納まりを気にする分量か?)
・書店で本を買おうとする時、アマゾンにしようか、一瞬ためらう。何でわざわざリアル書店で買わなくてはいけないのか、と。理由:この子(本)が買って買ってという空気を醸し出しているから。仕方ないじゃないですか。(世の中は仕方のないことで成り立っている。)
・最近、某文庫のサイズが微妙に変わって、過去の文庫と合わなくなった(本棚への納まりが・・・)。それどころか、他の文庫と文庫カバー(カバーのカバーね)を共有できなくなった。わざわざ自分で折りなおしているのだ。(と書くと、性格判断をしたがる人っているよね。)
・喫茶店で(読書していて)、コーヒー3杯目のおかわりをしようかどうか、という時。それって人としてどうか、と思わなくもない。食事をしてないのに2千円を超えそうな時とかも。1~2時間くらい居座っているから、場所代としては安いかな。そういう問題か?
・カフェで、コーヒーL(エル)サイズを頼むとき(読書するから)、よくM(エム)サイズと聞き間違えられる。注文の頻度としてまあ当然だけど、いっそ指でL字サインしてあげようかしら、と思う。思うだけですよ、やってませんよ。客ではなく店員さんやメイドさんがやるならともかく。(じゃあM字は・・・とか妄想しないように。)
そういえばこの前の真夏日に、ホットコーヒーを頼んだら、アイスコーヒーとレジ打ちされた。ホットで悪いか・・・。
2012.4
京極夏彦「幽談」
麻耶雄嵩「メルカトルかく語りき」
上田早夕里「リリエンタールの末裔」
Peter Tremayne「サクソンの司教冠 」
トレメインもそうだったのですが、国外作品の翻訳が出版される時は、必ずしも原著の発表順とは限らない。それがシリーズ物であっても。色々な事情があるのでしょうけれど、翻訳を待って読む一般人にはどうにも仕方のない話。とはいえ、読む順番が違っても、実はあまり支障はない(ここは意見の分かれるところかな?)。支障はない、というのは、読書の楽しみやその作品の価値を減じたりはしない、ということ。その点について、自分は以前はあまり意識をしていなかったのですが、某作家先生のコメントを聞いて、なるほど、と腑に落ちた次第。作家は、どのような読まれ方をするか、あらゆるケースを想定して書いている、というのもある。(受け売りが多いですね〜。受け売り人生。)
自分でも、背景が多少わからなくても想像で補って読むのも楽しいし、後から前の作品を読んで、ああそうだったのか、と思うのも楽しい、と思う。(ネタバレはよくないですよ?読者の側からのはね。)推理小説で前の作品のメイントリックを明かしていたら、その場合はどうかと思うけど(^_^;後作から読むのはどうか、という意味)、そう思うのはマニアだけだったりして。そういえば、探偵が過去の事件を解説しているときに、それを初めて聞く登場人物が「ネタバレだ!」と叫ぶ事はないですね。(>そんなメタな人はいない)
ただ、読む順番が異なれば、感想や感動の具合(量ではなくて質的なもの)は違ってくるだろうとは思う。情報を取り込んでから、自分のなかで構築する過程が違ってくるので。一度ある順番で読んでしまったら、他のパターンは試せないけれど・・・。比較不能な点は、人生と同じ。「人生と同じ」で締めると、大したことない文でもそれらしく聞こえるなあ。
2012.3
小林泰三「セピア色の凄惨」
北村薫「鷺と雪」
「物語のルミナリエ(異形コレクション)」
西尾維新「JOJO'S BIZARRE ADVENTURE OVER HEAVEN 」
石川雅之「もやしもん 11」
本関連のスタンドとくれば岸辺露伴かな・・・この人、好きです(>だから知らない人に判らないネタを・・・)。あ、ボインゴもそうか。他にもあったっけ?

「読書の極意」。お、いいのか、そんな究極のお題を出して・・・(極意なんて無いから大丈夫!)。
これにどう答えるか、で、その人の読書に対する捉え方がわかるかな、と思って。
例えば「読み方」を連想する場合、速読法とか読解力とかね、あと完読法とか、メソッドへのこだわり。まあ、当然と言えば当然の正統派?知識の吸収に重きを置いていて、勉強の意味合いが強そう。 ある程度は体系だった方法論が可能だから、実用性もそれなりにあるし(よく知らないが)。
対して「何の本を」選択するか、の問題と捉えた人は、目的やシチュエーションに(読書が)左右される、とか。これも当たり前かな・・・。読めばわかる、けど時間がもったいないから読む前に知りたい、といった欲求もありそうですね(>無理言うな、と言いたいが)。
自分が心に留めているのは、某作家先生の言葉で、面白くなかった本は読まなかったことにしている、というもの。解説は不遜なので書きませんが、奥が深いです。これは、何でしょうね、読書への姿勢かなぁ・・・より普遍的なポジティブ思考がバックにある、と勝手に解釈しています。
2012.2
神林長平「言壷」
David Gordon「二流小説家」
綾辻行人「深泥丘奇談」
小林泰三「大きな森の小さな密室」
子供のころ、食事中に読書したら親から怒られた、だろうと思う(してみたことすらないが、それが当然のように躾けられた、のかな)。誰かと一緒に食事しているときは、基本、読書しない。ポリシーってほどじゃないけど・・・。
で、読書中の食事について(>同なじぢゃ)。
片手で食せるものが適している、とか、汁が飛ばない物がよい、とか、実はあんまり気にしてない。これはむしろ食事の認識にあるのだが、そんな簡単に食べられるものが、自分にはどうも「食事」とは思えないので。例えば、@ロリーメイトで済ませる時って、食事にはカウントしていない(>カウントしてるのか)。読書に合わせて食事を変えたりはしない。ま、普通か。
いやまあカロリー取っていれば食事といえるけど、こうして書いていて気づいたのが、「食事」にはカロリー摂取以外の要素も含まれるってこと(人によって違うでしょうけど)。儀式的な何か、かな・・・読書もそうですし、ときっぱり書くと意味ありげだが、大した意味はありません。だから実際は読むのと食べるのを交互にしているだけなんで〜、食事内容は何でも構わない。フルコースとかでなければ。
普段は喫茶店飯が多いので、サンドイッチとかよく食べますが、別に読書しやすいからじゃなくて、単に好きだから。パンに小説が書いてあれば良いのに、って思った事はまだない(「まだ」?)。「暗記パン」を使えば一石二鳥じゃ・・・そうか、あれは読書したのと同じなのかな・・・(「そうか」?)。
え〜、でも、XXXな内容の本を読んでいるときには、さすがに食事しないでしょ、とお思いの方、さあ、どうでしょうね。食欲とXXX欲は似ているから(おっと)。睡眠欲とかですよ、もちろん。
2012.1
Peter Tremayne「死をもちて赦されん」
Connie Willis「我が愛しき娘たちよ」
都筑道夫「退職刑事4」
米澤穂信「儚い羊たちの祝宴」
トレメイン初読。オーソドックスという感じ。こういうのは好きなほう。

服を買いにショップに入ると、すかさず店員さんが寄ってきて、何かお探しですか、とくるアレが苦手なのですが(単に苦手というだけで、嫌いではない)、書店でもこんな感じだったら、と考えてみた。(色々と下らないことを考えるんで・・・)
「何かお探しでしょうか?」「いえ、ちょっと新刊が出てないかと」「雑誌のほうでしょうか?あるいは小説でしたらこちらのコーナーになりますが」「あ、そうですか(知ってるけど)」「今季のランキングはこのようになっておりまして、今一番売れておりますのがこちらの作品になります」「(ぱらぱらと捲って)はあ、ちょっと面白そうですね(全く興味はない)」「普段はどのようなジャンルをお読みになりますか?」「(うっ、答えにくいことを)え〜っと、ミステリとかSFとか」「単行本ではいまこちらが話題の新作ですが」「(文庫になってから買おうと思っていた)あ、それはもう買ってしまったので」「ノベルスではこちらも出ておりますが」「(その隣の本を手に取って)ん〜、こっちのほうかな」「お客様、結構な通でいらっしゃいますね」「(ツウってなんだ?マイナーなマニアってことか?)いやそんなことは」「最近ではこのようなXXXフォントが流行でして」「読みやすい感じですね(頼むから内容を見せないでくれ)」「この紙は防皺加工が施されており、水に濡れても皺になりにくくなっております」「はあ、それは便利ですね」「表紙と色は2種類のデザインが選べますが」「じゃあ・・・こっちで」「指紋をつきにくくするラミネート加工はなさいますか?覗き見防止にもなります。オプションで、少々お時間をいただきますが」「う〜ん、それはいいです」「その他に何かお探しでしょうか」「これとそれとそれをお願いします(もう帰ろう)」「当店オリジナルのブックカバーはいかがでしょうか。各サイズ取り揃えております。特製栞と専用手提げ袋とのセットもございますが」「それはまた今度(絶対買わない)」「ではレジまでお運びします」「(文庫にカバーは付けるかどうしようか・・・)」・・・最後に出口まで本を運んでくれて、店員総勢でありがとうございましたの輪唱を浴びて、後ろめたい気持ち(>そんなにしてもらうほどの買い物か?)で帰る。
ネット書店の「おすすめ」とかで、上記と似たような空気を感じるのは気のせいか・・・(いや?別に悪くはないですよ。嫌いではない)。