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地域ビジネス革新プロジェクトの教員が日頃考えていること、研究成果や取り組み、学生たちとの日常についてご紹介いたします。

2022.12.03 AM 12:19

自動車と脱炭素について

【この投稿については、ポエムだと思ってください。長文なのは相変わらずです】
ハイブリッド車をいまさら開発するわけにもいかない欧州勢が、クリーンディーゼルでごまかそうとした結果、詐欺がバレた。
そのとき、欧米の自動車産業はトヨタに敗北した
劣勢となったときに、ゲームの枠組みを変えることにより巻き返しを図ることを常套手段とする相手が、
脱炭素に起死回生の希望を託してくることは、当然予測しておくべきことであった。
政治経済的な思惑により、脱炭素の動きが起きていることは間違いないが、その一方で、若者のあいだにグレタトーンベリ的な価値観が広がっていることが、報道からは伺える。
航続距離が短く価格的にも魅力的とはいえない電気自動車しか選択肢がなくなるような規制を一般市民が受け入れるような情勢にあることは、間違いないのである。
それがトヨタ憎しという要因だけによるものとは思えない。
ウクライナの戦争により脱炭素は影も形もなくなったかのようであるが、ドイツなどでは、若者の脱炭素への情熱は冷めていないと聞く。
それに対して、日本では下々から権力者まで、脱炭素をうわべだけのお題目としか捉えていないように見える。
この違いが、ハイブリッドを含むガソリン車禁止で奇襲だ、そこまでやるのかという受け止め方になってしまう背景ではないだろうか。
相手が政治経済的な思惑だけで動いていると考えているから、足下をすくわれたのではないか。「気候正義」という概念が生まれたのは、欧米がキリスト教を文化的背景としているためと聞く。
正義に対する向かい合い方が、日本と欧米では異なると感じる。
こういった違いに気がつかない限り、日本はこれからも時流を読み間違え続けるのではないだろうか?
100~200年後には、人類は、破滅的な気象災害に音を上げて、政治経済的な思惑抜きに脱炭素と本気で向き合わねばならない事態となるであろう。
(DACで意外となんとかなったということになる可能性は否定できないが)
かつてタテマエに過ぎなかった、他国への武力侵略禁止が、現在はある程度強固な規範となっているのと同じことが、脱炭素でも起きるであろう。
もちろん、武力侵略禁止という点について、現在の世界状況をみわたせば、規範をあからさまに無視する国と、ダブルスタンダードで上手に無視する国ばかりで、日本がいちばん生真面目に守っているというくらいの話になる。
だから、日本にとって脱炭素の問題は、欧米もきちんとやっているわけでないことを、巧妙に押しつけられる、という印象が消えることはないかもしれない。
しかし、規範をあからさまに無視するのと、ダブルスタンダードがありつつも守っている体裁をとるのとでは、立ち位置は全く異なる。
武力侵略禁止という規範については、日本は中国ロシアチームではなく欧米チームの一員となっているが、脱炭素ではいつのまにか中国チームにはいっているということになりかねない。
電気自動車に対する批判として、それを充電しているのは化石燃料ではないか、製造時にガソリン車よりもco2を排出するではないか、という批判が繰り返されている。
しかし、相手は、電力も自動車製造のサプライチェーンもすべて脱炭素出来たときが、トヨタを倒すとき、というくらいに考えているのであろう。
技術面からいえば、脱炭素が厳しい産業は、製鉄とセメントと聞く。自動車に関係がある製鉄については、リサイクルを極限まで推進することで、還元剤であるコークスを極力使わないようにすることが対応策となるだろうか。
化学反応の面における炭素の必要性を解消し、電炉でなんとかなるのであれば、問題は再生可能エネルギー供給量に収斂する。
このような技術面において、解決が難しい問題があるならば、政治的な決断によるごり押しではどうにもならないから、どうせ欧米のやり方は行き詰まるだろう、という話に結びつくのはわかる。
そうではなく、電力や素材産業が脱炭素出来ていないうちに電気自動車を普及させているというフライングの問題ばかりあげつらっているようにみえる。この国は、なぜそこまで近視眼的なのか?せめて、自分の孫が生きる範囲の未来、100年先くらいは考えられないのか。
脱炭素の動きが、サプライチェーンまで問題にするような厳しいものだとは、自分も予想できなかった。日本が脱炭素していない国だとみなされた場合、日本企業と取引する欧米企業は脱炭素が不十分な企業とみなされることになり、その結果、日本企業は相手にされなくなる。
ウクライナの戦争により欧米自身の脱炭素の目処が立たなくなったことで、このような懸念はなくなったかのように思える。しかし、その安心に浸っているうちに、こんなはずではなかったという事態がまたやってくるであろう。なにせわが国は、農業だけに限らず、政と官からは、権力争いと内向きの調整に終始して将来展望を考えない様子しか伝わってこない状況である。
『ストーリーとしての競争戦略』という本に記されているが、トランジスタという発明に対して、日本人(ソニー)の反応は、これでラジオを作ろうというものであった。
アメリカ人の反応は、トランジスタの作動原理や素材工学についての研究を進め、さらに技術者がトランジスタをうまく扱えるようにするための教育体系を検討ということであった。
江戸時代に、世界でも通用する様々な技術を発達させながら、それを体系化し科学に昇華させることがなかったのも、同じような現象といえるのではないか。
そして、脱炭素という概念に対する反応として、プリウスで応えた日本と、欧米のやり方の違いにも、にたようなことを感じる。
国民性の問題として捉えれば、どちらがよいわるい、という話ではないのであろうが、さらにもう一つの国民性である、安心渇望症が重なると、非常に悪い方向にいっているように思える。ひっきりなしに見舞われる自然災害のせいなのか、日本人の心性には安心への渇望と諦観が奇妙に同居している。
トヨタは、プリウスで勝利した。それは第1ラウンドの勝利にしかすぎなかったのだが、第2ラウンド以降のことは、忘れることにした。この勝利により、もう戦わなくてすむ、いつまでも続く安心が得られたのだと思い込むために、第2ラウンドのことは考えなかった。
かりそめのものだとしても安心を得たい、それが長くは続かないことは、心のどこかで気付いているが、それはあきらめる。いまある安心を壊さないために、あきらめる。
トヨタ自身は、このように忘れたりあきらめたりしているようには見えなかった。水素路線は、このような心情の帰結に見えなくもなかったが、本当のところどうなのか、私にはよくわからない。しかし、トヨタを取り巻く経済誌、評論家、とくに「自動車評論家」という肩書きの人々の態度は、あからさまにこのように見えた。トヨタの勝利をもてはやす日本国民も、そのように考えているようであった。
まぁ、トヨタ自身が焦っているということが露わになった今となっては、さすがに電気自動車をつくるなんてプリウスよりも簡単だから大丈夫、なんていう記事を書く人はいないだろうし、ここに書いてあることも後出しの感があるわけだけど。
私も同じなのかもしれない。みんな、本当に気付いていないわけないよね?みんなが、いままで心の底から安心してきた愚か者だなんて思いたくない。だからみんな、せっかくプリウスが輝かしい勝利を収めたのだから、ここらでひと休みして、ちょっと勝利の余韻に浸らせてくれよと、そういうことなんだと思っておこう。
そうすれば、私の心にも、ひとときの平安が訪れます。

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