先日、ある先生が私を飲みに誘ってくださった。
そこで話したことのなかで、自分が研究者として何者であるかを気付かされた。
「自分の目で見たものしか信じられない」
この言葉は私を評したものではなかったのだが、今まで考えてきたどんな言葉よりも、研究者としての自分を良く表していると思った。
私は、この目で見たものしか信じられないのである。
私にとっては、JAが官製の行政補助組織であることと決別し、本来的な協同組合に生まれ変わるなど信じられない絵空事である。
協同組合主義による共同社会が成立するための条件として、私は農業者のような生産者と労働者の連帯が必須条件であると考えるが、農協職員が協同の理念を実現するための仲間ではなく使用人として扱われ、農業者同士でさえ専兼や規模の大小による利害が調整できないというのに、生産者と労働者が本当の意味で連帯するなど考えられない(モンドラゴンとかイタリアの社会的協同組合などを見れば考えが変わるかもしれない)。スーパーなどのやっていることを部分的に代替しているだけなのに、産直を過大評価し協同組合社会の萌芽のように讃える研究者は信用できない。
信用できないのはすべて、自分の目で見たことがないからである。
理念だけが先行して、実態がともなわないものが心底嫌いである。
理念として唱道され啓蒙された「自発的な協同」にある種のパラドックスを感じてしまう。農協系統組織の運動として展開される「アクティブメンバーシップ」なるものは、新しい形でソフトに表現された組織動員にしか見えない。
私と飲みに行ってくれた先生は、見たものしか信じられないのは不幸なことである、と言っておられた。そのとおりだと思う。
不幸の意味はいろいろあると思うが、さしあたり、見たことがない希望を信じることが出来て、それを心の支えにしてゆくことができれば、楽である。以前の記事にも書いたように、年代が上の先生ほど楽観的な見解を持つ傾向が強いように思う。年をとると、希望のない厳しい現実と向き合って生きるのは、しんどいのであろう。
私のような性分だと、空虚な理想論を見るたびにいらだちを覚えて、大変損である。なぜこのようになったのかわからないし、先日の飲み会まで自分でも気付かなかった事なのだが、思い返してみると、自分の考え方や行動に染みついてしまっており、とても変えられそうにない。この「見たものしか信じない」という性分は。
私はいらだったり腹を立てたりしても、よく寝ればすっきり忘れられる方なので、今まではこのようなことをストレスとしてため込むことはあまりなかった。しかし、農業や農協の状況、あるいは秋田県の地域社会について、最近おきていることや、今まで知らなかったことを知るに従い、少しずつ心が重くなっているような気がする。「見てしまったものは無視できない」からである。