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地域ビジネス革新プロジェクトの教員が日頃考えていること、研究成果や取り組み、学生たちとの日常についてご紹介いたします。

2018.05.27 PM 04:12

地域って受け身な存在なのではないかと思う

昨日も、学会のシンポジウムについての記事を投稿しましたが、そのシンポジウムでは、「地域」ということがテーマの1つになっていました。

農業経済学では「地域」に何かを期待する議論を大変頻繁に目にします。農業自体が地域に深く依存する産業なので、そういうことになるのも自然な議論の流れですが、なんだか無条件に地域に期待しすぎと思うことが時々あります。なにかを議論してきて最後に展望めいたことを言わなきゃならないときは、地域の機能がなんとかしてくれるって書いとけばいいよ、みたいな。そんな万能薬か?って思うわけです。

確かに、私も実際に調査していて、問題の行方が地域のあり方に左右されるという局面はたくさんみてきました。

でも、地域って入れ物みたいなものだと思うんです。もうすこしありがちな言い方をすると、「場」ってやつなんだと思う。「場」に出来ることは、それ自体が何か能動的に新しい仕組みを作り出すものではなくて、そのなかで活動する人たちのパワーを引き出すことでしょう。だから、地域が何か機能を発揮しているという場合は、実は役場や農協などの外部の主体が目的を果たすために地域を使っているか、もしくは地域内部のイノベーティブな個人が自分の思いを実現するために地域を使っているか、そういうふうに私は見てしまいます。

そういう地域を動かす主体が見えないこともよくあると思います。水利とか、農地流動化の際の調整機能とか、そういうものは誰かが奮闘して地域を動かしているようには見えないでしょう。世代交代などの構成員の変化にもそれほど影響を受けず、地域そのものに組み込まれた仕組みとして動いているという例はたくさんあります。

でもそれらは、最初から地域が持っていたのではなく、やはり外部もしくは内部の地域そのものではない主体が、少なくとも地域に対して問題提起するといったアクションを仕掛けてはじまったものなのではないでしょうか。そのなかで、毎年おこなわれる仕事、あるいは農地移動のように周期的に繰り返されるものについては、地域は既存の価値観・規範や役割分担などとの調整を図りつつ、地域の仕組みのなかにルーティン化して組み込んでゆくものなんだろう。

そのようなルーティンができあがった後から観察すると、それはもともと地域が持っていたもののように錯覚してしまうのではないでしょうか。地域というのは基本的には受動的で、それが持っている規範が新しい取り組みを邪魔することはあっても、地域そのものが新しい取り組みの起源になることはないというふうに思っています。「地域がなんとかしてくれる」という議論は結構なのですが、そのような地域の力を誰が引き出すのかということとセットで論じる必要があると思います。

イノベーティブな個人を生み出すのも地域だ、といってしまえば、ここで論じたことはあまり意味が無くなってしまいます。しかし、個人に帰するべきものと集団に帰するべきものを峻別することは、私が大学院生の時からずっと大事にしてきた方法論です。それは誰に教えられるわけでもなく最初から自分のなかにありました。おそらく、集団行動が大嫌いなくせに、協同組合の理念に惹きつけられて研究の世界に入ったことが、何か関係しているのではないかと思いますが・・・。

 

でも、いつもこのブログで私は自信満々に断言していますが、ここで書いたことはそんなに自信があるわけではありません。最近は農村にどっぷり浸かるような調査はしていないですし。そして、地域って言葉は、コミュニティとかの類語もあわせると、ものすごく多様で複雑な論点を背負っていて、私などが簡単に論じられるようなものではないです。

 

ところで、昨日のシンポジウムでは「次世代型農業経営」という言葉も取りあげられていました。この言葉もなんだかしっくりこないなぁ。

農地改革後の戦後自作農が第1世代、構造政策の洗礼を受けて第2世代、本格的に兼業化したのが第3世代みたいな規定がないのに次世代っていう意味がわからんです。地味でつまんなくても、先進的農業経営とかでいんじゃあないですかね。少なくとも、何の「次」なのかが気になる。概念規定の中身にそんなに意味がない、単なるラベリングであれば、ネーミングで奇をてらったり斬新さを演出したりするのは好きでないですね。まあこの辺は好みの問題でしょうけれど。

カテゴリー: 教員の活動