「レオナルド・ダ・ヴィンチの手記」(岩波文庫 p20-21)より

 いやはやこの手輩、私の仕事が他人の言葉よりも経験から引き出されていることを御存知ないのである。経験こそ立派な著述家の先生であった。だから、私もこれを先生としてあらゆる場合にその援助を仰ぐつもりだ。

 多くの人々は私の証明が二三の非常に尊敬すべき人物の権威にそむいている---かれらのあやふやな判断によればであるが---と主張すれば、それで合理的に私を非難しうると信じている。やっこさんたち、私の仕事が、それこそ本当の先生である、単純簡明な経験の下に生み出されたものであることを考えない。

 たとえ奴らのように、著作家たちを引用することができたところで、奴らの先生の先生たる経験を引用する方がはるかに偉大でありかつ読む価値も大きい。やっこさんたち、自分の苦労ではなく他人の苦労で膨れあがり贅を尽くし飾りめかしていらっしゃる。が私の苦労は自分自身にそういう真似をするのを許さない。そして、やっこさんたちが創作者たる私を軽蔑するなら、創作者でなくて他人の作品のラッパ卒兼暗誦家にすぎないやっこさんたちこそ、遥かにはるかに非難されてもよさそうなものではないか。

 創作者であり自然と人間とを通訳する人間は、他人の作品のラッパ卒兼暗誦家と較べるなら、鏡の外部にある客体と、鏡に映っているその客体とが似てはいるが、前者はそれ自身で何ものかであるのに、後者は無に過ぎないという関係と異ならない、と考えた上で尊敬されるベきである。人々はあまり自然の恩恵をこうむらぬ、けだしかれらは専ら人工の品を着けているばかりだから。もっとも、それすらなかったら、かれらを畜生の群れに仲間入りさせても差し支えないに相違ない。

 経験の弟子、レオナルド・ダ・ヴィンチ。


レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)