妥当なフレームワークとそうでないフレームワーク
フレームワークの出来には大きな違いがある。
たとえば宗教や政治の都合から作られたものは、
科学の進歩の妨げとなる。
逆に、完璧なフレームワークは存在しない。
どんな理論も、現実をよりシンプルに表現するものである。
言いかえると、現実はいつも理論より複雑である。
どのフレームワークも、宗教・政治的原理主義と完璧の間のどこかにある。
しかしその優劣を定義するのは簡単ではなく、数値化が困難だ。
たぶん科学者によって、価値観が異なるだろう。
妙な話だが、フレームワークを考えるためにはフレームワークが必要なのだ。
ややこしい。
とはいえ、よく認められている必須項目は、こんな性質ないし姿勢だ。

- オッカムの剃刀
- 理論はなるべくシンプルにすること、不要な仮定をつくらないこと。
- 検証可能性の維持
- 理論をつくる際にはどうしてもいくつかの仮定をするものだ。
しかしその仮定が妥当なものかどうかを検証可能にしておくこと。
なるべく早い時期にその検証をおこなうこと。 - 客観性の維持
- 理論から得られる結論に主観がまぎれこまないように保つこと。
- データの恣意的な取り扱いの禁止
- 客観性を維持するためにも。
より良いフレームワークを構築することは、自然科学の重要な目標である。
この優劣を考えるのはややこしい作業だけど、それを放棄してしまうと
科学が進むべき道がわからなくなってしまう。
この優劣を問わない姿勢が「相対主義」なのだと思う。
それは優しい姿勢だが、科学に求められるものとは異なる。