青春の紆余曲折

電子情報システム学科 教授 曽根 敏夫

 六三制といわれる新しい学校制度が発足したのは、1947年だが、私は翌1948年に新制中学校に入学した。太平洋戦争の終結した年(1945年)の秋に、それまで育った外地から引き揚げ、親の郷里であった現在の宮城県古川市の郊外に落ち着いたので、農村地帯のいなかの中学校であった。学校にはピアノも無く、オルガンが、音楽授業の唯一の教具であった。きっかけは何だったか忘れたが、そのオルガンを使って、若い独身女性の先生にバイエルの手ほどきを受け、音楽に限りない魅力を感じたのが、現在の専門につく発端であったと言ってよい。

 音楽家になりたいという希望はあっても、敗戦で職を失った親は貧しく、楽器を買うなどは、夢のまた夢であった。それでも、高校1年までは音楽に傾倒した。高校2年からは、大学受験競争が熾烈になり、受験勉強に精出すこととなった。家から通える大学ということで、東北大学の法学部を目指した。

 高校3年の1学期の中ごろ、担任の先生に呼ばれて、「お前は法学部志望というけれど、せっかく数学や物理が得意なのに、もったいないから理科系に行け。これからは理科系の素養が重要になる。」と言われた。考えていなかったので、「理科系と言っても、どの学部に行けばいいでしょうか。」と尋ねたところ、一晩考えて「医学部へ行け。」という返事をくださった。私も、その気になって、医学部を受験すべく願書を出した。ところがそれを知った父に、「自分も若くはないので、一人前になるのにあと10年もかかるのではかなわん。工学部に入って早く就職してくれ。」といわれ、再び担任の先生に相談した。その結果、工学部にもう一通願書を出し、東北大学工学部に入学することになった。

 工学部では、2年になるとき学科を決めるシステムだったので、電気系に進学した。3年のとき、配属研究室を決める段になってはじめて音響学の研究室があることを知り、中学生の心のときめきが蘇った。音響学の道に入ったのには、このような背景がある。結局、教授の勧めで、大学院の博士課程まで進み、東北大学教授で定年を迎えることになった。

 中学校時代の音楽の先生には、中学校卒業以来、一度もお会いしていない。しかし、1997年に河北文化賞をもらい、河北新報に大きく報道されたとき、先生からお祝いの手紙をいただいた。それ以来、年賀状を交換し、ことしはその先生のお宅にお寄りする約束である。50数年を経て、どのようなおばあさんになられたことか。


 
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