社会における大学を考える

生き残りをかけて

親しかった方が若くして亡くなったときに、スピーチを頼まれて、だいたいこんな話をしました。

───人生の意味はなんだろうか? 
故人はその役目を果たし終えたのか? 
生物学が教えるところの人生の意味は少なくとも2つある。
ひとつは遺伝情報の次世代への伝達(と改善)すなわちジーンであり、
もうひとつは技術や知識の創出と伝承すなわちミームである。
彼は若くして亡くなったがここに遺子がある。
また故人をしのんでここに集まられた多くの若い同僚たちは、
おそらくその知識や経験を継承されていることだろう。
彼の人生は短かったが充実したものであった。
私は生物を学ぶ者として、彼の人生を讃えたい。



大学は人間のつくる組織の一つです。
組織は個人ではできないことを協力して行うためのものです。
国や企業、NPOのような組織と同じように大学もまた役割をもっています。
役割はたぶん時代や地域によって異なることでしょう。

おもしろいことに、組織は自己保存や増殖といった、
人間そのもののアナロジーでよく説明できてしまうような「本能」を持っています。
当初の役割が陳腐化すれば組織も寿命をむかえるはずですが、
役割を終えた組織の骸の何と多いことか! 
新しい役割にふさわしいのは、また違った種類の人間の集団ですが、
多くの組織は看板を変えて生き残りを図ります。

なぜ組織が1人の人間のアナロジーで説明できてしまうのでしょうか? 
私はこう考えています。組織には、その内部の利害関係を調整したり、
組織の意思決定をするためのプロパーが生じてきます。
たとえば官僚と呼ばれるこれら少数の人々の意見が組織を動かすのだけど
(また、そうでないと船が山に登ってしまうのだけど)、
この人たちが持っているミーム・ないし集団内でこうしたポジションをとる個体が
とりがちな意思決定の方向性に、「その集団の持続」があるのではないでしょうか。

大学や研究所も、人間のつくるもんですから、集団の生き残りを志向します。
この性質には良くはたらく面も悪くはたらく面もあることでしょう。
ただ、なんでもそうですけど、行きすぎれば弊害が増えます。
端的に言うと、「生き残りをかけて」懸命に仕事をしているところの仕事は、
おおむねつまらんのです。
これは私の偏見かもしれませんが、しかし賛同される同業者は多いです。
科学として痩せている、あるいは結論で無理をしている、
もっとひどいときはデータそのものが怪しかったりします。

大学の重要な役割のひとつに、人間の知識を増やすことがあります。
われわれ自然科学に携わるものは「科学」の手法を用いて自然から学び、
それを人々とわかちあうことを生業としています。
あたりまえですが、科学の目的は「生き残り」ではないのです。
目的を誤ると、いい結果が得られる確率が下がりますよね?

質の高い仕事が、結果として生き残りにつながると理想的です。
そのためには、いったん「生き残り」のスローガンを忘れたほうが良いと、私は思います。


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15 Dec 2005
小西智一

秋田県立大学
生物資源科学部/地域共同研究センター