「総合的な判断」につきまとう曖昧さ

総合的な判断は、結果を要約していくことと似ている。
結果を整理し要約することは、何かを捨てて何かを残すことだ。
捨てるにせよ拾うにせよ、選択が必要になる。
そこには客観性を損なう落とし穴がある。

たとえば、わかりやすく知見をまとめるためには、
ある特定の(既知の)遺伝子セットを用いて、
よくわかっている現象のキーワードで整理することが有効である。
たとえばプログラム細胞死というキーワードは、
研究者間に(ある程度にせよ)共通したイメージをもたらす。

こうした現象に共通の遺伝子群が活性化されているなら、
そこで起きていることはプログラム細胞死に関わりをもつことだろう。
しかし、細胞の刺激への反応は単純であるとは限らない。
たとえば薬剤への反応は、その薬剤の影響に加えて、
薬剤を失活させる働きが起きるだろう。
また反応へのネガティヴなフィードバックも生じるだろう。

多くの遺伝子発現が大きく変化しているとき、
恣意的にデータを集めて(残りを無視すれば)
結論を誘導することさえ可能かもしれない。
いかに客観性を保ったまま、データを整理したらいいだろう? 

ログレシオの大きさによるサマライズは一つの良い方法だろう。
熱力学モデルによると、ある刺激は調節因子の活性濃度を変え、
その因子濃度の変化は発現量を相乗的に変える。
調節因子の変化や、あるいは受容された刺激の大きさは、
遺伝子の発現量のログレシオに比例することになる。
もちろん因子濃度の変化はひとつの客観的な指標となりえる。
そこで、ログレシオで表される遺伝子発現の変化を指標にしつつ、
たとえば一定の大きさ以上の変化があった遺伝子をリストアップすれば、
客観的に結果をサマライズしたことになる。


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